『失われた30年から今の株式市場をみ』
日経平均株価は6月に33年ぶりの高値を付けた。英米のメディアでは「中国売りの日本買い」の記事が相次いでいる。33年ぶりということは1990年来の高値ということになる。史上最高値はその数か月前の89年12月29日の38,915円。高値を付けた33年前に一体何が起こったのだろうか。(7月1日 文責太田)
目 次
1、失われた30年の原点
2、世界を制した80年代の日本の半導体
3、日米半導体協定で日本の半導体産業は失速
4、『「NO」と言える日本』
5、バブルは「プラザ合意」から始まった
6、日米半導体協力で政府も半導体に注力
7、ジャパンコールで史上最高値達成を
8、YCCやETF購入などの非常事態政策の正常化が中長期的に株価を押し上げる
9、大きな構造変化の中での株高
失われた30年の原点
バブル崩壊後の1990年から続く株価の停滞、経済の停滞が30年続いたが、バブル崩壊前の経済状態は一体どうだったのだろうか。周知のごとく、1970年代から80年代にかけて、日本経済は活力にあふれ、米国を猛然と追い上げていた。米国も、80年代になると日本経済を警戒していた。当時の米国にとって、脅威だったのは、中国ではなく、日本だったのだ。
79年には、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出し、日本ではベストセラーとなった。この本は日本の経済成長の原因を探ったもので、日本人の学習意欲、読書意欲を高く評価している。当時、個人的には、「日本人はそんなにすごいのかな?」「むしろ米国がおかしくなっているのでは?」などと思ったりした。
その象徴だったのが半導体産業だ。1970年代後半から日本の半導体の対米輸出が増加し、米国内で「日本脅威論」が強まっていた。1971年の半導体売上ランキングでは、世界1位がテキサスインストゥルメント、2位がモトローラ、3位がフェアチャイルド、と米国企業が上位を独占していたが、その背後では、日本企業の半導体が静かに順位を上げて迫ってきた。1981年には「64キロビットDRAM」のシェアでは、日本企業は合計70%を占め、米国の30%を大きく上回った。この時、米国の雑誌には「不吉な日本の半導体勝利」と題した記事が出て、米国内で日本の経済力を恐れる人たちが増加、「日本脅威論」が広がっていった。
世界を制した80年代の日本の半導体
半導体は「1980年代の原油だ」とも言われた。米国ではこのころコンピューター産業が急速に拡大しており、すべての企業はPCに頼るまでになっていた。そして、日本は「半導体産業のサウジアラビア」としてみなされるようになっていた。1981年、「64キロビットDRAM」のシェアでは、日本企業は合計70%を占め、米国の30%を大きく上回った。
1983年、日本製半導体が急速にシェアを拡大し、米国半導体メーカーの間に危機感が増えていった。1986年9月に半導体に関する日米貿易摩擦を解決するために締結された条約が「日米半導体協定」。この時の半導体売上ランキングで世界1位はNEC、2位が日立、3位が東芝、4位がモトローラ、5位がテキサスインスツルメント7位、8位、9位は日本企業が占めている。この条約は10年間効力を持ち、90年代に入って日米半導体協定によって日本の半導体産業は急速に国際競争力を失っていったのだ。
日米半導体協定で日本の半導体産業は失速
この協定の主な内容は2つあり、1つは日本がDRAMのダンピングを行うことのないように日本企業は自由に価格を決めてはならず、米国政府が価格を決定するという取り決めだ。両国の政府が一体となり、日本企業に製品のコストデータの提出を求めた。このとりきめによって、米国や韓国のメーカーは日本のものより少し安い値段を付ければ簡単にシェアを獲得できることになる。
2つ目は、日本の半導体市場での外国メーカーのシェアを10%から20%に拡大する取り決めだ。当時の日本には家電製品向けを中心に巨大な半導体マーケットがあったが、日本の半導体メーカーが圧倒的なシェアを保持しており、外国メーカーは10%ほどしかシェアを持っていなかったのだ。
明らかに不平等な協定だが、当時の米国と日本の国力の差では、このような理不尽な要求をされてもそれをはねのける力がなかった。同時期に韓国メーカーがDRAMの生産開発を始めていたが、韓国メーカーはDRAMを日本に持っていけば、外国製半導体を購入するノルマで容易に販売できるため、まさに漁夫の利と呼べる状況だった。
1996年に日米半導体協定は解消されたが、その後も日本の半導体は弱体化が進んだ。半導体協定が弱体化のきっかけにはなったが、それがすべてではない。その主な原因は1990年代にマーケット構造がアナログ主体からデジタル主体へと変化したことだ。日本が得意としていた民生品(テレビ、ラジオ、VTR)はすべてアナログ製品だが、1990年代にはピークアウトし、デジタル製品のパソコン市場が民生品市場を上回っていった。しかし日本はこのパソコン時代に乗り遅れてしまった。さらに2010年頃からはスマホが半導体市場の中心となったが、スマホの時代にも日本は乗り遅れてしまったのだ。
日米半導体協定を通じ日本のメーカーは失速した。日本の半導体産業の衰退は日本経済の「失われた30年」を象徴するものであった。バブル崩壊は地価高騰の反動もあるが、「ジャパンバッシング(日本たたき)で日本企業の収益力が落ち、さらに日本を敬遠する動き「ジャパンパッシング(素通し)」。石原氏のエッセイに米国が逆襲してきたのだった。
『「NO」と言える日本』
日経平均が史上最高値を付けた1989年、1冊のエッセイが発行された。ソニー会長の盛田昭夫氏と作家の石原慎太郎氏の共著『「NO」と言える日本』だ。
石原氏は、日本は尊重されるべき強国であり、アメリカと取引をする際に日本人は自分自身の権利や意見をより主張すべきであると論じている。盛田のエッセイは、アメリカ企業の悲劇的な欠点や、日本がその印象や地位を向上させるにあたって何ができるかについて焦点を当てている。石原の主張は、日本の技術の優位性を言い、世界は特に半導体の生産において日本の技術に依存するようになった。米国の軍事力には日本製の半導体が不可欠。要するに日本の半導体を使わなくては精度の保証ができなくなっている。さらに日本がソ連に先進的な半導体を提供すれば、冷戦の軍事的バランスをがらりと変えることができると述べた。また、米国の労働者のレベルは低いので商品の質も悪く、一方では日本の労働者の優越した教育は大きな強みであるとも言っている。
当時の日本人は自信過剰気味であったが、このエッセイでは石原氏特有の傲慢さが見え隠れする。今も当時も半導体を制する国は軍事的優位性を持ち、同時に世界を制するともいわれている。当時の日本は今では想像できないくらい半導体を抑えており米国にとって脅威だったのだ。
バブルは「プラザ合意」から始まった
バブル時代、1987年ころからの株価の上昇は1985年9月の「プラザ合意」がキッカケだった。この時、1ドル240円前後だった円相場が、12月には200円台という円高になった。翌86年早々には190円台に入り、これが円高不況を呼んだ。
バブルの直前、86年から87年の夏ごろまで、日本経済は、かつてない円高不況に見舞われていた。この円高不況で、日本企業はトヨタもソニーも輸出競争力が下がり、政府も経済界も、このままでは日本経済は沈没するのではないかと本気で心配した。そこで政府は景気対策を矢継ぎ早に打ち出し、日本銀行は強力な金融緩和を実施した。これは86年、87年の話だ。ちょうどそこへ、円高のメリットが遅れて効いてきた。原油など輸入品の値段が円高によって安くなったのだ。円高は、デメリットとしてまず不況をもたらしたが、次に、輸入原材料の値下がりというメリットをもたらした。企業にとっては予期せぬコストカットだった。半導体の世界シェア拡大など、それがみな合わさって88年から株価や他の資産価格の上昇というバブルが始まったのだ。
日銀の「大胆な金融緩和」は資産価格を押し上げ、株価だけでなく土地の値段の上昇は顕著で、当時「山手線内側の土地で米国全土が買える」など豪語するものもいた。
89年、三菱地所はNYのロックフェラーセンターを買収した。同じ年ソニーはコロンビア映画を買収した。この2つの買収で米国では「日本企業が米国の魂を買い漁っている」と言われ、「ジャパンバッシング」(日本たたき)に繋がっていった。今の日本は円安のため、中国の富裕層から不動産を買い漁られるといった全く逆の立場になっている。
日米半導体協力で政府も半導体に注力
そして今、また日米での半導体協力からすべての流れが変わった。トランプ政権が開始した対中抑止策は、2021 年 4 月の菅バイデン会談での日米共同声明で初動が与えられ、対中デカップリング、日米半導体における協力から流れがつくられてきた。菅バイデン会談の一か月後に自民党半導体議連が設立され、10 兆円規模の投資を推進することが決められた。
2021 年 10 月には世界最強の台湾半導体メーカー TSMC が投資額 1 兆円の熊本工場建設を決め、その完成も待たずに第二期の建設も内定している。また官民出資の最先端半導体製造会社ラピダスが北海道千歳で累計 5 兆円規模の投資を推進している。今年の5月、広島G7の直前、台湾TSMC、インテル、サムスン、マイクロンテクノロジーなど世界大手半導体企業の首脳が日本に集結し、日本での半導体投資を相次いで打ち出した。
現在、日本は半導体材料では世界シェア 56%、半導体製造装置で 32%と、この分野では今でも圧倒的シェア を持っており、中国依存から脱却するためには、日本は最重要拠点である。特にこれからの技術革新のカギとなる後工程(組み立て)で日本の技術蓄積は世界的水準にあり、各半導体メーカーが日本詣でを始めたようである。一度は完敗した日本のハイテク産業は大きく再興に向けて走りだしたのだ。
6月26日、半導体材料大手のJSR(4185東証プライム市場)は政府系ファンドから資金を得、業界再編に乗り出すと発表した。同社は半導体製造で重要な「露光」という工程で欠かせない液状の化学薬剤であるフォトレジストの世界でもトップメーカー。世界シェアは27%。
これまで政府系ファンドによる買収は、経営不振企業の「救済」という色合いが濃かった。
同社の米国人の社長は、「経営危機に直面し救済を求めて打ち出した施策ではない。さらなる機会を求めてのことだ」と、これまでとの違いを強調する。確かにJSRの自己資本比率は50%で財務基盤は強固。足元の業績も堅調で、半導体材料は中長期的な拡大が見込まれる成長市場だ。日本の材料メーカーの競争力は圧倒的で、2位の台湾16%を突き放している今こそ、仕掛けるタイミングだといえる。
ジャパンコールで史上最高値達成を
かつてのバブル崩壊さ中の「ジャパンバッシング」(日本たたき)、「ジャパンパッシング」(日本素通し)の風景は変わりつつある。米中対立により、かつて日本が異質と米国に見られたが、異質論の矛先が今中国に向かっている。米国や台湾の企業が日本を選ぶ「ジャパンコール」が徐々に起き始めた。おそらく長期的な追い風になることは間違いない。
2000年の米国IT バブルは株価が高値を戻すのに15年かかった。1930年代の大恐慌は回復に25年かかっている。日本はバブル崩壊から33年、最高値から85%の位置まで株価は戻してきた。このままいけば、おそらく最高値回復にはあと1年は必要かもしれない。
そして当面のリスクは日銀にあると思っている。
YCCやETF購入などの非常事態政策の正常化が中長期的に株価を押し上げる
6月14日、米FOMC、15日はECB理事会、16日は日銀政策決定会合と金融政策を決める重要な中央銀行の会合が開かれた。市場の予想では、植田総裁が何らかの今後の正常化の動きを示唆、または含みを持たせると期待した向きも一部にあったようだ。だが、結果は完全なゼロ回答。
日本経済は順調。インフレは少し高めだが、欧米よりは断然マシであり、景気自体も悪くない。これだけ問題が少ないにもかかわらず、黒田東彦前総裁が10年間にわたって行った、緊急避難的な危機対応の異次元緩和を維持し続けている。そして「副作用がもっと大きくなるまでは、現状の緩和を続ける」構えを見せている。要は、まったく動く気配がないといってもよい。
経済がこれだけ長期にわたって平時を取り戻したのであれば、普通の金融緩和は継続しても、緊急避難的なトリッキーな手法は即時撤廃すべきだ。すなわち、ETF(上場投資信託)の購入やYCC(イールドカーブコントロール、長短金利操作)といった、世界の中央銀行の歴史において前代未聞、まさに古今東西類を見ない非常事態政策を継続していることを放置している。
植田氏が日銀総裁に就任して早々に打ち出した、「1年半程度の期間をかけて過去の金融政策について検証を行う」という方針には、発表当時、「人を食った話だな」と驚いた。検証など学者の時代に済んでいるのではないか、この人は金融政策の変更をヤル気がない、または中央銀行のトップとしてのリスクをとるつもりはないのではと思い少々失望した。
YCC(イールドカーブ・コントロール)を巡り、16日の会合でも「将来の出口局面での急激な金利変動の回避、市場機能の改善、市場との対話の円滑化といった点を踏まえればコストが大きく早い段階で、扱いの見直しを検討すべきだ」との意見が出ていたことが明らかになった。物価上昇率が先行き2%を下回らない可能性が高いとの意見もあったようだ。
16日の会合直後から円は1ドル140円台の円安になってきた。執筆時点(30日)では145円を東京市場で付けた。この背景には16日の会合での政策の現状維持がある。したがって投機筋も安心して円を売っているのではないだろうか。円安は輸入物価上昇と伴い明らかに一般消費者にダメージを与える。YCCの修正やETCの購入停止などがなければ、円安は続く。145円に付けたことで160円レベルの円安警戒が必要になってくる。
6月30日の日経新聞では日銀の7月会合でYCC(イールドカーブコントロール)修正の観測が出ていると報じている。修正内容にもよるが、YCC の修正は株価にとって目先ネガティブに作用するだろうが、正常化に向かうことで中期的にはニュートラルだと思う。日経平均が史上最高値を目指すためには、異常な政策をやめ、普通の金融緩和策をとることが条件と考える。
大きな構造変化の中での株高
1990年、日本の株価は崩壊し始めたが、同時に米ソ冷戦が米国の勝利で幕を閉じたのだ。ソ連崩壊と日本経済のピークアウトは偶然ではない。米国にとって経済的ライバルである日本をたたき、中国を投資先に選んだ。そして今中国は外交安全・保障の面から米国にとって脅威となってきた。米中間でも21世紀の石油である半導体の主導権争いに、かつて蹴落とした日本との半導体同盟の構築を急ぐ姿勢が見えてくる。半導体関連株はすでに4月ころから上昇している。
今回の日本株高は景気サイクルではなく、大きな地政学的な構造変化の中で起こっている。要するに、日本株上昇をもたらすのは、企業改革(PBR 1倍割れ見直し、株主還元)、などと言われているが、日本の立場で「経済安全保障」も要因の一つだ。海外勢の買いもいつもと違って、新参者が目立っているようだ。スウェーデン系、オーストリア系など馴染みのなかった顔ぶれが目につくようだ。ある株式評論家が、日本をよく知らない海外投資家からの質問で椅子から転げ落ちたと自分の株式評論の中で堂々と書いていた。日本株の経験がない投資家が買おうと経験豊富な投資家が買おうと、付けた値段の意味に変わりはないのだ。それが相場なのだ。この評論家は日経平均が2万8000円くらいで売りを推奨していた。相場に関わるものにとって、「謙虚さ」が最も重要だと言いつつ何十年もたった。89年の石原氏の『「NO」と言える日本』ももう少し謙虚な分析があったら、米国の対応も違ったかもしれない。もちろん、この株式評論家もそうだ。
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■レポート著者 プロフィール
氏名:太田光則
早稲田大学卒業後、ジュネーブ大学経済社会学部にてマクロ経済を専攻。
帰国後、和光証券(現みずほ証券)国際部入社。
スイス(ジュネーブ、チューリッヒ)、ロンドン、バーレーンにて一貫して海外の 機関投資家を担当。
現在、通信制大 学にて「個人の資産運 用」についての非常勤講師を務める。
証券経済学会会員。
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